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体が動くうちにリタイアし、次のことにチャレンジしたい――東島義澄さん(日本システム開発名誉会長)

2009/03/16 15:41




人ありて、我あり【奥田喜久男】

<1000分の第31回>


 2008年10月に日本システム開発の名誉会長となった東島義澄さん。私が東島さんを知ったのは1982年。当社BCNが新大塚に社員数人で事務所を構え、創業社長である東島さんが一般向けに開発したソフトウェアを販売し始めた四半世紀も前のことである。本当に久しぶりにお会いした東島さんに、その近況と第一線を退いた心境をうかがった。【取材:2008年11月6日、BCN本社にて】

※編注:文中の企業名は敬称を省略しました。

●37年間、地道にやってきた

 奥田 東島さんとお話しするのはいつ以来かと思い出そうとしたのですが、どうも記憶がはっきりしません(笑)。たぶん、Windows95が出る前のような気がするのですが…。

 東島 そうですね。もうだいぶ前になりますね。

 奥田 御社の創業はいつでした?

 東島 1971年の5月です。ですから創業37周年ということになりますが、歴史が長いばかりであまり会社を発展させることなく(笑)、昨年9月に70歳になり、いよいよ引退ということですね。

 奥田 いやいや、変動が激しいIT業界にあって、歴史が長いというのは立派なことですよ。

 東島 たしかに同じ時期に創業した同業他社は、大きく伸びて上場企業に成長した会社もあれば、その反対に潰れたり合併した会社もずいぶんありました。もちろん苦労はありましたが、なんとかやってこられたというところでしょうか。

 奥田 創業メンバーは何人でしたか。

 東島 7人の技術者が集まって始めました。その頃はもちろんパソコンはなく、大型機が中心で、ミニコンが登場し始めた時代です。ソフト製作を外注するということもまだ少ない時代でしたが、私たちが最初に携わったのが、メーカー系ソフトウェアの受託開発です。

 1981-82年頃、最初に取り扱ったパッケージソフトは、IBMのミニコン用に開発された三次元の配管ソフト、つまりCADソフトです。他社開発によるものでしたが、非常に性能がよかった。ただし当時は1システムで5000万円以上もしましたから、結局、2システムしか売れませんでしたね。その後パソコンが普及し、主な販売先が法人から一般消費者に変わっていくなかで、価格も安くなってきました。

 奥田 パソコン時代になって、パッケージソフトの販路もBtoBからBtoCになってきたということですね。

 東島 そういうことです。そこでパソコン向けのソフトとして、1983年に「MyCalc(マイカルク)」というデータベースソフトをリリースしました。プロトタイプは8ビット機が出た時期に開発を進めていたのですが、発売したのは16ビット機が出てからです。16ビットになってようやく使える動きになったんですね。

 外見は表計算で中身はデータベースというものだったのですが、一般向けにはまだ難しく、使い勝手がいまひとつだったようです。販売目標は1万本でしたが、実績は数千本というところです。最終的には、マイクロソフトのExcelが出た時点で撤退しました。

●山歩きを再開したい

 奥田 私も「マイカルク」はよく覚えています。ところで、現在はどんな事業を中心に、どのくらいの陣容で行なっておられるのですか。

 東島 メインの事業は昔から変わらず、メーカーからの受託事業です。通信・ネットワークの基礎部分について、メーカーから試作を依頼されることが多いですね。それと、ここ数年の事業ですが、旅行会社といっしょに格安航空券の自動販売システムを開発し、実用化しています。「ena(イーナ)」というシステムですが、サイト上で航空券を検索し、そのままオンラインで予約・購入できるというしくみです。

 社員数は140名くらいで、外部スタッフを含めると総勢200名程度です。拠点は東京・新宿の本社と多摩にある開発センターの2か所ですが、社員数はここのところずっと同じくらいですね。だいたい年に10人退職し、新卒を10人採用するというような感じです。

 奥田 あまり変わらないとおっしゃいますが、この競争の激烈なIT業界でメーカーからの受託が途切れず、毎年新卒を10人も採用できるというのはすばらしいじゃないですか。

 東島 ……まあ、昔から長くやってきたということが、受託にも採用にもいえるんじゃないでしょうか。学生からは、安定した会社のように思われているようですし……。

 奥田 この東島さんの訥々とした「間合い」の話し方は、昔とまったく変わりませんね。失礼ながら、やり手の創業経営者にはあまり見えません。140人の社員に対して「オレについてこい!」なんておっしゃったことはないんじゃないですか。

 東島 そうですねぇ、そういうのは嫌いなんです。リーダーシップは大学時代のワンゲル部で培ったつもりですが、そういう表現の仕方はしないですね。

 まあ、つくりたいものをつくってきただけというところもありますし、独立創業したのも周囲が次々と独立するような環境にあったから、経営についてあまり深い考えはありませんでしたね。

 奥田 なるほど。チャレンジャー精神や創業者精神は、心の内に秘めているということなのでしょう。ところで、名誉会長になられてからは、どのように会社と関わりをもっているのですか。

 東島 基本的に何もしません。週2回程度、会社に顔を出すだけです。私は、65歳で社長を引退しましたが、このときに役員の定年制度をつくったのです。それで自らふんぎりをつけました。その後2年ほど会長として代表権をもってましたが、いまはそれもありません。つまり、まだ身体の動くうちにリタイアし、今後のことを考えたいと思ったわけです。

 奥田 第二の人生では、どんなことに力を注ぎたいと思っていらっしゃいますか。

 東島 とりあえず山歩きを再開させたいですね。もちろん体力が落ちていますから、近郊の低い山になるとは思いますが……。ただ、先日、友達に誘われて、ネパールのカトマンズに行くことになったんです。そのために、いまは毎日腕立て伏せをして、なんとかついていけるように準備しているところです。

 そういえば、最近の週刊BCN(2008年11月3日号)に秋田駒ヶ岳に登ったという内容を「旅の蜃気楼」のコラムで書いておられましたよね。

 奥田 あ、読んでいただきましたか。

 東島 私は毎週、「旅の蜃気楼」から読み始めるんですよ。

 奥田 あの記事では、仲のよい三人組で山行したので、“だんご3兄弟”なんて表現を使っていますが、これからは“だんご4兄弟”でいきましょうよ。

 東島 ありがたいですね。でも、一緒に行けば迷惑をかけるかもしれない。カトマンズ行きが決まる前に、試しに腕立て伏せをやってみたら、なんと1回もできないので、愕然としました。放っておくと筋力というのはあっという間に落ちるものなんですね。それから毎日、腕立て伏せを日課にして、やっと20回くらいはできるようになりましたけれど。

 奥田 それなら大丈夫。次はザックを担いでお会いしましょう。

【対談後に届いた東島さんからの手紙】

 予定通り、11月22日からバンコク経由でネパールのカトマンズへ行き、ルクラを経て標高3880メートルのホテルエベレストビューに2泊しました。眺望は、360度、本当に素晴らしいものでした。ホテルからクムジュン、クンデ村を経てクンデピーク(4200メートル)を往復してきました。

 帰りもタイ経由の予定でしたが、空港封鎖のため飛行機が飛ばず、急遽ポカラへ行き、アンナプルナ、マチュピチュレ、ダウラギリ等を遠望して、三日遅れで香港経由の帰国となりました。天気は晴れ続きで、山の景色は「素晴らしかった」の一言です。また行ってみたいです。(2008年12月19日記)

■プロフィール

東島 義澄(ひがしじま よしずみ)

 1938(昭和13)年9月13日、茨城県日立市生まれ。1964年、武蔵工業大学工学部電気通信工学科を卒業し、日立電子サービス株式会社入社。同社にて大型コンピュータのハードウェア障害診断プログラムの開発を担当。1968年、株式会社東京エレクトロン研究所(現・東京エレクトロン株式会社)に転じ、1971年、ソフトウェアの開発と販売を事業とする日本システム開発株式会社を設立、代表取締役社長に就任。2003年、代表取締役会長、2008年、名誉会長となり、現在に至る。


※初出:「WebBCN」2009年1月13日

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