ページの先頭です。

new 実数入りデータを見るなら「BCNランキング-PRO」有料版

苦闘10年で生産管理システムの雄に--梶山桂さん(リード・レックス社長)

2009/04/08 12:59




人ありて、我あり【奥田喜久男】

<1000分の第17回>


 梶山さんは大野侚郎先生の紹介で知った。「データベースに生涯を捧げると言ってる面白い男がいる」とのことだった。最初に面会したのは、梶山さん言うところの「BCNがまだワラ半紙だった頃」だから、この人とも長いつき合いだ。カード型データベースDATABOXで基礎を築き、生産管理システムという畑違いの分野に出ていった。1990年代、「DATABOXで稼いだ資金が尽きるのが先か、R-PiCSを軌道に乗せるのが先か」という瀬戸際の苦境を経て、生産管理システムのリーダー企業になった。【取材:2007年9月27日、リード・レックス本社にて】

※編注:文中の企業名は敬称を省略しました。

●経済学部出身ながらSEに

 奥田 社会人のスタートは日本ユニバックだったんですね。

 梶山 大学では経済学部で計量経済学を学びましたが、コンピュータに触った経験はありません。ただ、コンピュータはこれから発展する産業だと思い、日本ユニバックに入社して、職種はSEを選びました。SEというのは新しい職種だし、わかっている奴は少ない。ちょっと勉強すれば、人に負けることはないだろうと思ったんです。

SEの仕事というのはマシンの販売に付随して発生します。最初に派遣されたトヨタでは、日本初のタイムシェアリングシステム、次に行ったIHI(石川島播磨重工)ではデータベースを使った生産管理システムを開発しました。この生産管理システムは、当時注目を集めまして、上司からお前はデータベースの専門家になれといわれて、米国のデータベースの最新情報を翻訳して関係部署に流すというような仕事をやり、自分ではいっぱしのデータベースの専門家になった気でいました。

 ところが、とんでもないことがわかったんです。

●米国で失意のどん底を経験、自分の居場所も発見

 奥田 ほほう、どんなことですか。

 梶山 71年から72年にかけて米国のベル研究所に研修に行かされました。そこには、すごいSEがごろごろいるんです。当時のベル研は、電話加入者に対するサービスアップの研究を続けていました。SEたちは自分でイメージを描き、それに向かってクリエイテイブな研究を行っている。そうした彼らの言うことが、私にはさっぱり分からないんです。最初は英語力がないからだろうと思ってたんですが、どうもそうじゃない。

 それまで知らなかった世界ということもあったと思いますけど、彼らの言う意味も価値もわからない。会う人、会う人そうなんです。

 日々落ち込んでいきまして、俺にはSEの天分が欠けているのか、技術者として生きていくのは無理なのかと思うようになっていきました。今考えれば、ベル研には世界でもトップクラスの研究者たちが集まっていたわけですから、そう落胆することはなかったんでしょう。けれども、当時は若かったですから、一途にSE失格かと思いこみ、悲しく、つらい思いで一杯でした。

 奥田 何歳の頃だったんですか。

 梶山 28歳ですね。じつは、米国でもう一つの転機を経験するんです。

 ベル研の後、ユニバック本社に回った時のことです。データベースの部隊で研修を受けた際に、当時の米国では有名なマーボ・ベリスというSEがリーダーを務めていました。彼の言うことは私にはよくわかる。ところが、部員たちは分からないと言う。メンバーは50人くらいいたのですが、誰も理解できないって。それで私に、インタープリターとして翻訳して彼らに説明するという役回りが回ってきました。

 この経験によって、自分の才能というか、居場所はこの辺にあるのかなと思うようになりました。天才のインタープリターですね。

 奥田 リード・レックスの創業は1974年でしたね。技術者として生きていけないなら、独立するか、と考えたわけですか。

 梶山 ええ、ベル研ショックが独立の引き金になったことは確かですね。

●大型機のデータベース開発でスタート

 奥田 独立して、どんな仕事をしようと思っていたのですか。

 梶山 大型機のデータベースの開発を主業務とするつもりでおりました。だけど、独立とはこんなにお金のかかるものだという意識は薄かったもので、初めのうちはすごく戸惑いました。

 最初に頂いた仕事は、川崎製鉄からのオンラインデータベースのコンサルテーションでした。今考えますと、破格の値段で発注してくれことがわかります。当時、通常のコンサルティングですと月30万円がいいところだったのに、140万円も出してくれたんです。データベースの専門家が少なかったという事情はありますが、当社が順調に立ち上がれたのは川崎製鉄さんのおかげだったなと、深く感謝しています。

 奥田 自社ブランドのソフトについてはどう考えていたのですか。

 梶山 当然持ちたいと考えていまして、80年にPSS(Planing Support System=経営意思決定支援システム)を開発したいとIPAに申請したら認められまして、1億円の開発資金を頂きました。約1年かけて開発、コンセプトの完成度は高いとの評価は受けたものの、売れたのはたった1本でした。

●ビジカルクの開発者に刺激受け、DATABOX開発

 奥田 DATABOXの開発はどんな経緯だったんですか。

 梶山 79年でしたかね、ニューズウィーク誌で、ビジカルクの開発者にインタビューしている記事を読んで、いささか興奮しました。機能の説明よりもなぜ開発したのかといったあたりに焦点を当てた記事になっており、卒論のために使えるツールを作ろういうのが動機だったというくだりなどはよく覚えています。

 パソコンでここまで出来るのかという思いと、パソコン時代になればソフト主導の時代がくるなという思いが交錯していました。それまでのメインフレーム時代というのは、ソフトは付属品扱いでした。だけど、これからソフトが前面に出てくる時代がくるなと、直感的に感じ、興奮したんです。

 この頃、ユニバック時代の先輩だった大野侚郎先生と会う機会がありました。先生も同じようなことを言っておられて、よし!パソコン用ソフトに突っ込んでいこうと思ったんです。

 DATABOXは、パソコンで使うことを前提にしたカード型データベースソフトで、よく売れましたよ。

 奥田 確かにロングセラー商品でしたね。

 梶山 15年くらい売れ続けました。純利益が3億円を越える年が7-8年続き、プログラム準備金として無税で20億円強を積み立てることができました。当社が生き残れたのは、この積立金があったからです。

●汎用的パッケージでは天才たちに負ける

 奥田 生産管理ソフトを手がけると聞いた時は、それまでのリード・レックスのソフトとは余りに違う分野なので、びっくりしました。何があったんですか。

 梶山 マイクロソフトからウインドウズ3.0が出たのが90年。これを契機に汎用型パッケージソフトの世界では異変が起きていたんです。世界で高いシェアを持っているソフトしかユーザーが受け入れなくなった。日本でそこそこのシェアを持っていても、土俵に乗せてくれない、そんな時代が始まったんです。

 確かに、米国生まれのソフトは、ビジカルク、ノーツ、モザイクなどにしても天才たちが産み落としたソフトでした。最後はマイクロソフトにやられてしまったけれど、天才たちとまともに戦って勝てるだろうか、という思いは80年代の後半に強く持つようになっていたんです。DATABOXも米国に負けるジャンルじゃないかという不安が頭をよぎっていました。そして、90年代に入るとこの懸念が現実のものになってきました。

 それで、天才たちに共通する弱点は何だろうと考えてみて、“飽きっぽいこと”ことだろうと、私は勝手に結論づけました。頭がいいだけに、すぐ理解して、ほかのことに関心を移してしまう、これは彼等の弱点だろうと思ったんです。

 奥田 飽きっぽくなかったのが、ビル・ゲイツか……。

●生産管理なら普通の人間がシコシコ努力してこそ報われる

 梶山 われわれ普通の人間が、シコシコ努力してこそ報われる世界、そんな世界があるはずだという思いで周りを見ていました。私が米国にいた頃、日本製の自動車が高速道路で火を噴いたなど、よく問題になってました。それが、改良・改善を続けることでここまできたわけです。

 ソフトの世界にだってそういったジャンルがあるはずだと、友人たちと話し合っていました。そんな時、ソフトクリエイトの林勝君がこんな話があるけど、やってみないかと声をかけてくれたんです。

 奥田 林さんとは大学時代の同期生なんですね。何年頃の話なんですか。

 梶山 91年でした。その話というのは、田町電機という電子部品メーカーの生産管理システムを構築することでした。じつは、生産管理システムというのはデータベースの代表的なアプリケーションの一つであり、世界に伍していけるのは製造業のアプリケーションと考えていたので、前から関心を持っていた分野ではあるんです。

 開発資金として1億円くらいは出すというので、引き受けることにしました。で、実際に開発に着手してみて、これこそが私の求める分野だという思いがどんどん強まってきました。

 それで、生産管理システムに賭けることにしたんです。田町電機のシステムを開発しつつ、汎用バージョンの開発にも首を突っ込んでいったわけです。

●お金が湯水のように流れ出ていく!

 奥田 それまでのソフトとずいぶん毛色の違ったソフトでしょう。社員たちはどうしたんですか。

 梶山 増員、増員を続けました。じつは91年には、それまでの本業ソフトでは利益を出せず、赤字に転落していました。そのなかで、4-5億円の開発資金の投入でしょう、お金が湯水のように出ていきました。最終的には20億円をきれいさっぱり使ってしまって…。

 奥田 プログラム準備金で積み立てた20億円がなければというのは、こういう意味だったんですか。

 梶山 赤字ですから、銀行はお金は貸してくれません。融資担当者に会いに行っても、会ってもくれない。IPAや、エネルギー開発機構から多少は借りることができました。けれども、90年代は、お金が尽きるほうが先か、生産管理システムを軌道に乗せるのが先か、きわどい綱渡りの連続でした。

●軌道に乗るまで10年

 奥田 生産管理システム「R-PiCS」を発表したのが94年でしたね。

 梶山 発表にはこぎ着けたものの、こうしたソフトでしょう、おいそれとは売れません。初受注は、約1年後でした。社員から、連絡を受けた時はうれしかったですね……。

 奥田 そのまま順調に立ち上がったんですか。

 梶山 いえいえ、とんでもない。ああ、これで大丈夫、何とかなったと思えるようになったのは、2003年からです。バージョン3を01年に発表して、これが2年後くらいから評価されだして、うまく回転し始めました。

 奥田 まさに苦節10年だったわけか……。どの業界に強いのですか。

 梶山 自動車、電気、機械の3業界に的を絞ってます。いずれも世界で強い業界です。

 奥田 汎用化しているといっても、カスタマイズの要求もあるんでしょう。

 梶山 それはもう。日本のメーカーというのは現場が強く、ある意味でわがままです。自分たちのやってきたことに自信を持っていますので、コンセプトのせめぎ合いというのは常に発生します。教えてもらうことも多いですが、私どもも何百社というユーザーを持っていますので、教えてあげられる面もあります。そうした切磋琢磨のなかで仕事をしています。

 奥田 海外進出も早かったですね。

 梶山 今のところ、タイ、マレーシア、中国に進出しています。当社の立場からいえば、どうしても海外進出企業の業界の違いの影響を受けることになる。タイの場合は、自動車関連の企業が多く、順調にいっているけれども、マレーシアの場合は、電気系の企業が多く、各社苦戦していますね。電気の場合、部品は共通ですから、どうしても組み立て産業になってしまい、賃金の安い中国にやられてしまうという図式がみえます。

 奥田 現在、業界におけるシェアはどのくらいなんですか。

 梶山 1000万円から1億円くらいのシステムを対象にして、シェアは約15%と考えています。競合企業は100社は超えますが、シェアはトップだと自任してます。

●ERPメーカーとは協調路線

 奥田 ERPメーカーとは協調路線を取ってますね。これはどんな理由からなんですか。

 梶山 当社もERP全体を自社開発していた時期もあるんですよ。でも、会計パッケージの分野では後発であり、先行メーカーに追いつくのは大変だと判断したんです。先行メーカーの製品はそれぞれに完成度は高いし、お金持ちの企業でもある。それで生産管理に絞りました。

 彼らとはケンカするよりも、協調したほうがよいと考え、今では全方位的に協調路線を取っています。

 奥田 だけど、ERPメーカーのなかに、生産管理システムへの進出を考えているところがあるかもしれませんよ。

 梶山 それは仕方ありません。でも、生産管理システムというのは参入障壁が非常に高いのですよ。たとえば、製造業の原価計算というのは複雑で、入社してから退職するまでその仕事しかやってこなかったというような人がゴロゴロいるわけです。そうした人たちと対等に話ができるようになるには、10年以上の経験が必要です。だから、思いついたからといって、すぐに着手できるものではない。

●今後の課題は中国市場の強化

 奥田 MIJS(メイド・イン・ジャパン・ソフトウェア・コンソーシアム)に参加しておられますね。海外事業の強化はどのように取り組んでいくのですか。

 梶山 MIJSにはソフトブレーンの松田孝裕さんに誘われて参加しました。この1年、インターフェイスの共通化など、地道な努力を続け、成果が形になりつつありますね。

 当社自身は、中国での事業強化を最大の課題と考えており、2002年に上海にオフィスを構えました。そこで、中国でのマーケティングの難しさというのをいろいろ経験させられました。たとえば、中国では、日本人会の名簿ですら、基本的には作ってはいけないことになっているんです。反社会的活動に利用されるかもしれないというのが理由で、日本人会の名簿は北京だけは公認されていますが、上海は黙認の状況です。

 ですから、中国に進出している日本企業の動向把握というのは、われわれ規模の企業にとっては予想以上に大変なんですよ。でも、改善、改良、諦めないの信念を貫けば、中国でも成功できると信じてます。

 梶山 具体的な目標はお持ちですか。

 梶山 昨年の記者会見では、12年までには国内と同等規模に増やすと発表しましたけれど、ちょっと遅れるかもしれません。でも、地道に、シコシコ努力していきますよ。

■プロフィール

梶山桂(かじやま けい)

1944年6月10日、東京生まれ。1968年、慶応大学経済学部卒業、日本ユニバック入社。71年から72年にかけ、米ベル研究所、米ユニバックで研修。74年7月4日、リード・レックス設立。81年、カード型データベースDATABOX発売。94年、生産管理システムR-PiCS発売。
※初出:「WebBCN」2007年12月3日

ページトップへ

実売・市況・ランキング BCNマーケティング