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業務ソフトベンダー・ソリマチの社長から小説家に転身--篠崎紘一さん

2009/04/08 12:32




人ありて、我あり【奥田喜久男】

<1000分の第16回>


 新しくもらった名刺は「小説家 篠崎紘一」となっていた。篠崎さんに最初に会ったのは二十数年前だ。この時、強烈な印象を受けた。「この人はどんな環境にあってもリーダーになれる人だな」と。こんなイメージをもったのは、ダイワボウ情報システムを立ち上げた山村滋・元社長(故人)以来だ。それだけに「小説家になった」と聞いてびっくりした。今回のインタビューで篠崎さんが小説家への道を選んだ必然性が理解できたように思う。【取材:2007年7月19日、BCN本社にて】

※編注:文中の企業名は敬称を省略しました。

●新潟は祟られている!?

 奥田 今は新潟県の長岡市にお住まいなんですね。地震、大変だったでしょう。

 篠崎 よく、地震が来たら机の下に潜れといわれるでしょう。でも、大きな地震だったら、とてもそんな余裕はありませんよ。身体が膠着して、身動きすらできない。2回ともそうでした。

 奥田 ああ、3年前にも大地震があったんですね。

 篠崎 そうなんですよ。2004年10月23日に新潟県中越地震、05年12月から06年にかけては大雪、そして07年7月16日の新潟県中越沖地震と、この4年間、何事もなかった年はないんです。

 それで地元では、誰かに祟られてるのかなという話がよく出ます。新潟出身の歴史上の人物といいますと、上杉謙信、山本五十六、それに田中角栄の3人なんです。このうち祟るのは誰だろうと……。

 奥田 あの本じゃないですか。「悪行の聖者 聖徳太子」。こんな本書いた奴は誰だって(笑)。

 篠崎 私のせい? ほんとにそうなら光栄なんだけどな。

 奥田 それに「峠」(司馬遼太郎)の主人公・河井継之介も、何で私の名前が出ないんだと怒ってるんじゃないかな。

 それにしても篠崎さんが作家になるとはまったく意外でした。最初にお会いしたのは20年以上も前になります。私の第一印象は、あっ、この人はどんな環境にあってもリーダーになれる人だな、というものでした。それだけに、作家に転身されるなんて、予想外でしたよ。

 篠崎 私、早稲田の学生時代、純文学作家を目指しておりました。文学に対する希求は社会に出てからもずっと持ち続けていました。いつかはまた挑戦してみたいと。

●文学全集、百科事典の職域販売で営業の面白さ知る

 奥田 作家転身のいきさつについては後でお聞きするとして、社会人のスタートはどこだったんですか。

 篠崎 児童書などを出している「ほるぷ」という出版社です。コピーライターとして入ったんです。当時のほるぷは事業拡大の一環として百科事典などの職域販売に乗り出していました。盛岡の支局長が辞めてしまい、私に行ってくれないかという話が飛び込んできたんです。

 最初は、営業なんて初めてだし、都落ちもいやだななんて思ってたんです。とにかく行ってみることにしました。ところが、始めてみると、営業という仕事、また人を使うということが実に面白いことを知ったんです。

 会社や団体などの職場を訪問して、お昼休みなどに社員に集まってもらい、平凡社の百科事典などを割賦販売する職域販売が中心でした。場の雰囲気を盛り上げるセールストークひとつで、売れ方がまったく違ってくるんです。

 奥田 その営業手法は、自分で編み出したのですか。

 篠崎 当時はフランスベッドなどがこの手法で伸び出して、そのスパルタ教育ぶりも話題になっていました。そのスタイルを採用し、さらに独自の工夫も加えていきました。とにかく、工夫ひとつで売り上げは見事に違ってくるんですよ。それに、できる社員とできない社員がくっきり分かれる。営業会議では、成績の悪い社員に灰皿を投げるなんてこともやってましたね。

 奥田 今の篠崎さんのイメージとはずいぶん違いますね。

 篠崎 そうかもしれません(苦笑)。ほるぷには3年ほど在籍しました。その間、内部告発があったりして、7回も始末書を書いて…。まあ、その分、支局の成績はけっこうあがりましたけれどね。

 盛岡支局から青森支局へ、さらに秋田、山形事業部を経て、その後、岡山事業部に回りました。

 奥田 ソリマチの全国展開の原型はこの時に学んだんですね。

 篠崎 岡山にいる時、体を壊して田舎に帰ることにしたんです。当時の肩書きは販売事業部長でした。31歳で辞めた当時、月給は40万円を超えていました。それが反町税務会計事務所(ソリマチ)に入ると、大幅にダウンし、びっくりしました。

●腰掛けのつもりでソリマチ入社

 奥田 ソリマチにはどんないきさつで入社することになったんですか。

 篠崎 何の当てもなく帰郷し、多少貯金もあったのでしばらくのんびりしようと思っていたのですが、じつは彼女が妊娠したことが分かって…。

 奥田 できちゃった婚のはしりだったんだ。

 篠崎 まあ、そういうことです。妊娠が分かった以上、結婚式を挙げなければと思ったんです。その際、無職じゃ格好つかないなと思って、地元ではそれなりに知名度のあった反町税務会計事務所に声をかけたんです。そしたら、いいよということで入社することになりました。ただ、会計の知識を持ってるわけじゃないし、給料は前の会社に比べて驚くほどの低額でしょ。結婚式のための腰掛け、というのが本音でした。

 ただ私、新しもの好きですから、当時注目を集め始めていたコンピュータにちょっと関心をもって、うち(ソリマチ)でやらないかと提案しました。

 数年後、コンピュータ関連の会社をつくることになり、反町秀司オーナーが「いいだしっぺのあんたにやってもらいたい」と言われたんです。1972年10月にソリマチを設立、社員は5人で、実質的な責任者として私が経営に携わることになりました。これが、本格的にコンピュータとつき合うようになったきっかけです。

●田んぼのあぜ道にパソコン置いて使う姿をNHKが放映

 奥田 ソフトといっても幅広い。最初はどんな仕事をなさってたのですか。

 篠崎 立ち上がりは、電算機センターとして会計処理の仕事やソフトの受託開発をやってたんです。ソフトをやる以上、自前のパッケージソフトも欲しくなり、いろいろと知恵を絞りました。

 まず考えたのは、新潟生まれのソフト会社らしい特徴を持ったソフトを出そうという点でした。新潟で有名なものといえば米と雪。そこで、農家に役立つソフトを開発しようと思った。

 当時、米価は下降傾向で、農家は危機感を抱き始めていました。その農家に喜んでもらえるソフトということで、最初に開発したのが「稲作生育診断システム」。86年1月に発売しました。だけど、これは売れませんでしたね……。

 次に86年10月に「農業経営簿記」を発売しました。これが大きな話題を呼んで、NHKが農家に取材に行ってくれて。田んぼのあぜ道にパソコンを置いて使ってるところを撮る、というような演出までしくれました。

 86年ですから、パソコンを持ってる農家なんて村に1戸か2戸、ステータスシンボルとして座敷に飾ってあるような時代でした。

 進取の気性に富んだ農家ほどパソコン使うようになっていき、そうした農家は全国に13万軒はあるだろうと試算しました。会計事務所は5万あるといわれてましたから、決して少ない数ではないなと思っていました。

●農業ソフトでソリマチブランド確立

 奥田 農業の簿記ですか。会計事務所をバックにした会社らしいソフトだったんですね。

 篠崎 当時は「家の光」という雑誌がまだ全国の農家に力を持っていまして、1月号では毎年家計簿を付録にしていた。その家計簿をつけるのは奥さんの仕事という農家が多かったんです。そうした意味では農家の奥さんたちが最初に農業経営簿記の便利さを認知してくれましたね。

 奥田 BCNの1994年6月27日号のKEY PERSONに登場いただいた際には、これからは情報化農業の時代ともおっしゃってましたね。

 篠崎 農業の衰退については、行政や大学などの公的機関も大変な危機感を持っています。農林水産省は農業・農村活性化の補助事業を推進、農家にパソコンとCATVの導入を働きかけていました。

 機械化農業に次いで、農家も情報武装が必要だというのは、行政も研究者も共通の認識になっていました。そうした行政、学会の動きにソリマチも全面的に協力してきたんです。

 農業情報学会という学会組織があります。私、そこから学会賞をもらってるんですよ。表彰された時、学位もなく、論文も書いてないのに学会賞を出すのはお前さんが初めてだといわれました。

 奥田 一般企業向けの「会計王」を出したのは95年12月でしたね。

 篠崎 農業向けソフトが軌道に乗ったら、次は中小企業向けをやろうという思いは早くから持っていました。ただ、この分野については若い人材を育てて任せようとも考えていました。

 その頃、オーナーの子息である反町秀樹君がコンピュータに関心を持っているというので当社に来てもらい、会計王の開発プロジェクトチームを預けました。94年の1月で、彼が28歳の時でした。

●55歳で一念発揮、作家を目指す

 奥田 ソリマチのホームページで反町社長の発言「まだ見ぬ未来のパートナーの皆さんへ」を見ましたよ。

 それにしても、逆算すると、この頃の篠崎さんに何かがあったんですね。「日輪の神女(ひのかむめ)」を出版したのが2000年、執筆に4年かけたとおっしゃってますので、書き始めたのは1996年ですか。55歳で作家を目指すというのは、どんな心境の変化があったのですか。

 篠崎 本は好きですから、いろんなジャンルの本を読み続けてきて、俺も小説家にチャレンジしてみるかなと、漠然とですが思ったことは何度かあるんです。40歳の頃、農業ソフトにチャレンジ始める前にもそんなことを考えたことがあります。

 その時は踏ん切りがつかなかったんです。農業ソフトが何とか立ち上がり、後継者候補も見つかった。やり残したと悔やむより、本気でチャレンジしてみるかと思うようになったのは、確かに95年から96年頃ですね。

 それに、贖罪の気持ちもありました。コンピュータの普及は本当に人間を幸せにするのだろうかと、ソフト会社の経営者としては考えてはならぬことを考え出してもいたんです。

●IT社会は金太郎飴人間を増殖させる

 奥田 コンピュータの普及と人間社会の関係について、もう少し具体的にお聞かせください。

 篠崎 コンピュータは確かに優れたツールで、人々にさまざまな利便を提供してくれます。しかし、IT化の進展に対応できない人もいるでしょうし、ある種の抑圧感、閉塞感も生むのではないか、そんなことを感じだしていたのです。

 金太郎飴のような、画一的な発想をする人間しか評価されなくなるのではないか、それは怖い社会だぞと考え出していたんです。

 奥田 画一的発想か。私はテレビを見ていてそれを感じますね。ワイドショーの司会者やコメンテーターと呼ばれる人たちは、えらそうなことを言ってますが、その発想はものすごく画一的だなと…。どんな発言をすれば大衆に受けるか、という観点から発想し、他人をけなすのがうまい人間だけがもてはやされているように見えるんです。マスコミの末席を汚す者として、当社も気をつけねばいけないなと常々感じています。

 篠崎 確かにテレビってそういう側面はありますね。私が懸念するのは、IT化の進展は、そうした風潮を社会全般に及ぼすのではないか、ということなんです。金太郎飴にならないと社会からはじき飛ばされる、そんな社会にはなって欲しくない。

 じゃあ、それに対処するにはどうすればよいか。人々の精神が自由に解放される場を設ける必要がある、と考えるようになったんです。

 私自身、気に入った小説、優れた伝記などに出会うと、ああ、こんな生き方もあるんだ、こんな発想もあるんだと、心が洗われ、気分転換できる経験を何度もしました。そんな場を自分自身の手で提供してみたい--これが小説を書いてみようと思った大きな動機のひとつです。それに、IT化社会の推進に荷担してきた者の一人として、罪滅ぼしにもなると考えました。

●精神の自由度が高かった古代の人々

 奥田 小説の舞台を古代に設定していますね。これはどんな考えからなんですか。

 篠崎 日本の歴史を振り返ってみますと、精神の自由度が最も高かったのは、古代だったと思うのです。

 最初に上梓した「日輪の神女」は邪馬台国を舞台にしています。3世紀頃の話です。法律はもちろん、道徳観も固まっておらず、何もかもが混沌としていたはずです。生と死はまさに紙一重、今日は生き延びても、明日も生き延びられるという保証は全くない。さまざまな神は常に隣にあり、神々と共に生きていた時代だと思うのです。

 奥田 神々ね。私は神社で育ったんですが、子供の頃は、月が出ていない真っ暗な夜、境内を歩くのは怖かったですね。風で木々の葉が揺れながらサワサワと音を立てている。こんな時、人智を超えた何かの存在を最も強く意識させられた記憶があります。

 篠崎 自分の足元も見えない漆黒の闇なんて、都会に住む人たちには想像もつかないでしょうね。

 そうした暗黒の夜の中で育った人々のなかで、私が関心をもつのは、何か新しいことを行った人間なんです。新しいことをやるには、精神の自由度がものすごく高い人間でないとできない。

 弥生時代、飛鳥時代に日本人の原型は形づくられてきたと思っているのです。その意味で今の日本があるのは、時代を超越して新しいことを成し遂げた、つまり精神の自由度の高かった人々のおかげだというのが、私の小説を貫いているモチーフです。

●考古学、民俗学の知識は必須

 奥田 古代を描こうとすれば、SF小説的に空想だけで書くこともできますよね。そうせずに、関連文献を相当読み込んでおれるようですね。

 篠崎 SF小説は私の好みではありません。ただ、純文学というのは、事実の裏づけがあって初めて成り立つと考えていますので、民俗学、考古学の知識は必須だと思っています。「日輪の神女」をまとめるに当たっては、関連文献を800冊は読みましたね。

 奥田 社長業をこなしながらですか。

 篠崎 ええ。土曜、日曜しかできないものですから、4年もかかったんです。資料読みに2年、執筆に2年といったところでした。

 ただ、社長業をおろそかにしていたわけではありませんよ。それはソリマチの社員に聞いてみてください。

 事業というのは、ある意味で殺伐とした側面を持っています。創業経営者の1人として、不本意なことをやらざるを得ないこともありましたから、私にとっては、小説の執筆は癒しの時間になっていましたね。

 ただ、小説家を本業とするようになると、癒しの側面は消えてきました。アマとプロの差ですかね。

●聖徳太子はなぜ仏教にのめり込んだのか

 奥田 弥生時代の作品が「日輪の神女」「持衰」「日輪の神女―紅蓮の剣」「卑弥呼の聖火燃ゆる胸(サンクチュアリ)」と4作続き、飛鳥時代の初の作品が「悪行の聖者 聖徳太子」ですか。それにしても“悪行の聖者”とはすごいタイトルですね。

 篠崎 出版社には、あの聖徳太子を“悪行”と形容するとはどういうことだ、けしからんという抗議がいくつか舞い込んだそうです。

 聖徳太子は、通説は574年生まれ、622年に没したことになっていますが、資料を読むと実にさまざまな説があり、実在そのものを疑う向きもあります。

 そうしたなかで私が書きたかったのは、なぜ聖徳太子は仏教にのめり込んでいったのか、なぜ天皇にはなれなかったのかという点なんです。その理由をいろいろと考え、近親相姦で産まれたことに対する罪の意識が仏教にのめり込む契機になったのではないかと想像しました。

●ソフト製品の開発と類似点多い小説執筆

 奥田 本の巻末に参考資料がたくさん載っていますね。あれを全部読まれたのですか。

 篠崎 もちろんです。この説は面白い、自分なりに咀嚼して文中に織り込もうかなどと考えながら読んでいます。

 じつは、この稼業を始めて気がついたんです。小説を書くということは、ソフト製品の開発と似ている点が多いことにビックリしているんですよ。ソフト製品開発では、発想、技術、感動が重要なんだと常々言ってきました。小説でも同じなんです。

 発想は、他人とは違う視点で見ることが出発点になるわけです。この点はソフトも小説も同じです。技術は、ソフトでは使いやすさをいかに実現するかであり、小説では読ませるためのテクニック、工夫となります。感動については、小説なら当然で、ソフトでも使う人がこんな機能まで入っているのかと感動させることが重要なんです。そうした、発想、技術、感動の出発点になるのがデータ集めです。そのデータを元に、最初の構想を立てるわけです。そして、その構想に縛られすぎるとうまくいかない点も似ています。

 私の場合、構想が固まると、書くのは早いです。高校生時代にタイプライターのブラインドタッチを覚えましたので、頭の中に浮かぶ文章をキーボードを見ずに打ち込んでいきます。そうやって打ち込んでしまったら、1か月ほどは原稿を読み返さずに、ほかのことを考えることにしています。

 そうしてある程度時間をおいて読み直すと、あっ、これでは感情移入できないな、まだ60点の出来だななんていうことが見えてくるわけです。それで、いろいろと手を入れて、何とか80点まできたかなと思える時点で編集者に渡します。

 ところが、厳しい編集者は、これ60点の出来ですね、なんて言ってくる。それで、どこが悪い、俺はこう思うなどとケンカしながら再度手を入れていくわけです。

 この辺りもソフトの開発とそっくりです。まあ、ここまで手がかかるもんですから、私には1年に1冊が限度ですね。職業作家なら1年に4冊は出さないと食えないぞと脅かされているけど、私は1年に1冊でいいと達観することにしました。

●大化改新は世界初の社会主義革命だった

 奥田 次回作は誰をテーマにした、どんな作品になるのですか。

 篠崎 天智天皇が645年に行った大化改新は、日本というより世界最初の社会主義革命だった、ということを立証してみたいと思っています。663年には百済の復興に協力するため朝鮮半島に出兵、唐・新羅連合軍に戦いを挑み、白村江(はくすきのえ)の戦いでは、3万2000人の日本人が虐殺されるわけです。結果、日本は唐に占領される--というあたりまでが次回作のストーリーです。

 その後、天智天皇が崩御し、大海人皇子が672年に壬申の乱を起こし、天武天皇になるわけです。この壬申の乱についても新解釈を提示、次々回の本でまとめたいと考えています。

 奥田 遅咲きの大作家、今後のますますのご活躍を期待しています。

■プロフィール

篠崎紘一(しのざき こういち)

1942(昭和17)年2月17日、新潟県柏崎市生まれ。67年、早稲田大学文学部卒業、出版社「ほるぷ」にコピーライターとして入社。百科事典の職域販売で辣腕を発揮、販売事業部長に抜擢される。体をこわし同社を退職。72年、ソリマチグループのハイテクノロジー部門として設立されたソリマチに入社。常務、社長などを経て、03年社長を退任。

 ソリマチ在職中に書いた「日輪の神女(ひのかむめ)」(2000年、郁朋社刊)で第一回古代ロマン文学大賞を受賞。現在、作家業に専念。日本ペンクラブ会員、日本文藝家協会会員。主な作品は、「持衰」(02年、郁朋社刊)「日輪の神女―紅蓮の剣」(03年、新人物往来社刊)、「卑弥呼の聖火燃ゆる胸(サンクチュアリ)」(04年、新人物往来社刊)、「プラチナ世代が日本を変える」(05年、新人物往来社刊)、「悪行の聖者 聖徳太子」(06年、新人物往来社刊)など。
※初出:「WebBCN」2007年10月19日
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