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「運には恵まれました」と述懐する楢葉勇雄さん(大塚商会元副社長)

2009/04/13 17:00




人ありて、我あり【奥田喜久男】

<1000分の第13回>


 私が楢葉さんを最初に知ったのは、大塚商会で電算機の営業部長に就任された1976(昭和51)年だった。最初の印象は、聞き上手であり、ものすごく理詰めの話ができ、言葉に魂が入っている人だなというものだった。それで、大塚商会を退かれた後は、当社の顧問になってもらった。魂の入った話ができるノウハウを盗みたいというのが動機のひとつだった。だが、どうやら盗み損ねたようだ。【取材:2007年5月18日、BCN本社にて】

※編注:文中の企業名は敬称を省略しました。

ゲスト:大塚商会元副社長 楢葉勇雄 VS ホスト:BCN社長 奥田喜久男

●弁護士になるつもりがクリスチャンに

 奥田 楢葉さんはクリスチャンだそうですね。

 楢葉 私、子供の頃に親父と約束したことがあるんです。大人になったら、弁護士か学校の先生になるって。弁護士って、正義の味方だと思ってましたから。

 奥田 それで中央大学に進まれた。

 楢葉 そうなんですが、私、高校生の頃、女の子に結構人気があって(笑)、ガールフレンドが二人いたんです。そのうちの一人がクリスチャンだったという事情で…。

 奥田 あれー、この対談で初めてのろけを聞かされましたね。

 楢葉 中央大学に受かって、大学に行ってみると、クラブ活動の募集やってるでしょ。そのなかで、YMCAに惹かれちゃいましてね。Young Men\'s Christian Associationだったかな、キリスト教の愛好者のクラブだったんですが、彼女の影響がこんなところに現れて、即座に入会しました。

 YMCAには週一回、指導牧師が来て、聖書の研究や賛美歌の練習をしていまして、勉強するという雰囲気はないんです。法曹界に進もうと思ったら、しかるべきクラブか何かに入り、猛勉強しないといけない。ところが、YMCAにはそういう雰囲気は全くなく、いってみれば4年間遊び暮らしてしまった。

 で、司法試験は一度も受けませんでした。それに、私が大学を卒業した1953年というのは朝鮮戦争の特需が一段落したせいで不景気だったんですよ。それで行くところがなくて、教文館という会社を受けたんです。

 ここは、アメリカのキリスト教の宣教師集団がキリスト教関係の書籍の出版や販売のために作った会社で、YMCAの先輩が総務部長をやってました。そんな関係で、YMCAの仲間4人で受けたんですが、どういうわけか私だけが受かった。

 奥田 銀座通りの超一等地にある、9階建てのあの書店ですね。

 楢葉 今は、一般書籍も販売していますが、私が入った頃はキリスト教関係の書籍が中心でした。戦後の一時期は、中古衣料品などの輸入販売も手がけたり。ものすごく景気のいい時代もあったようなんですが、牧師さんなどが経営にタッチしていますので、ビジネスがうまいとはお世辞にもいえず、給料は遅配続きのような状態でした。私は営業に配属され、取次(問屋)や書店回りをしていました。

●大学同期生の紹介で大塚商会に

 奥田 大塚商会に入るきっかけは何だったんですか。

 楢葉 じつは大津君(大塚商会の専務を務めた大津昇氏)に紹介されたんです。彼とは、大学時代の同期生で、クラブ活動も一緒でした。「うちの会社で人を募集している。こないか」という誘いを受けたんです。

 で、創業社長の大塚実さんに会うだけは会ってみようかと思って、1968年の秋に面接を受けました。

 面接のとき、大塚社長に最初に聞かされたのは、「私は大きい会社を作りたいとは思わない。ただ、社員と家族に報いる点では日本一の会社を作りたい」という言葉でした。社員と家族に報いるって、キリスト教の教えと相通じるところがあるな、とまず思いましたね。

 次に、「ところで、君、給料はいくらもらってる?」という質問が飛んできました。教文館では次長職で、7万2000円だったので、正直にその額を言うと、「楢葉君、11万円出すからうちに来てくれないか」と言われました。その額を聞いてびっくり。「給料は私の働きを見てから決めてくださっても結構です」と言いますと、「今は謙譲の美徳は流行らないよ。もっと、自分に自信を持ちなさい」と言われたのをよく覚えています。

 人の心をつかむのがうまい人だな…というのが第一印象で、この社長の下ならやっていけそうだと思い始めていました。

 家に帰って女房に言いました。「会社を変えることにした。どうなるか分からないけど、いざとなったらどんな仕事でもやって食わせるから心配するな」って。

 結局、大塚商会には1969年1月に入社、当時私は38歳でした。教文館には15年間勤めたことになります。

●「自尊心を刺激せよ」で人使いに目覚める

 奥田 大塚さんがリコーの故市村清社長と和解、リコーの複写機を扱い始めたのが1968年でしたね。

 楢葉 大塚商会はリコーの電子リコピーを担いで急成長のステップを踏むことになる。大塚さんは「系列店戦争に勝つんだ」と社員に檄を飛ばしていました。当時の社員数は155人、売上高は8億6200万円、支店数は10店でした。

 私はそのうちの亀戸支店を預かることになりましたけれど、最初はとまどうことばかりで…。

 奥田 それまで、「汝の隣人を愛せよ」「人はパンのみにて生きるにあらず」という世界にいたのに、いきなり、「大塚商会の歩いた後はぺんぺん草も生えない」という世界に飛び込んだというわけですね。

 楢葉 ええ。宗教の世界では、物欲、金銭欲、名誉欲、地位などを否定し、精神的なものを大事にするわけですが、大塚商会の場合、歩け、歩け、攻めろ、攻めろの典型的な訪問販売会社。確かに、高賃金で、業績を上げればインセンティブもつくなど、できる人間には居心地のよい会社です。ただ、裏を返せばお金がすべて、お金以外に価値観はないのかという思いはありました。また、成果を出すためには、他人を蹴落としてでもという雰囲気も強く、最初のうちはこれにもとまどいました。

 一番つらいのは、人が辞めていくことでした。大学卒を定期的に採用するようになったのは1945年からだったと記憶していますが、1年後に残るのは3分の1ほど。同じ大塚商会という器、それも亀戸支店に配属されたのは何かの縁があるからだ、この縁は大事にしたいという考えで部下に接していましたから、辞表を出されると本当につらかった。

 それで、スローガンやら標語やらを張り出したり、成績の上がらない社員には叱る一方で、こうしたらいいんじゃないの、といった助言もしていきました。

 そんなある日、大塚実社長が突然、支店にやってきました。張り出してあるスローガンなどを見ながら、まあ座りなさいよと…。「楢葉君、君の言ってることは間違いじゃない。ただな、人間というのは理屈じゃ動かないんだ。一寸の虫にも五分の魂と言うが、魂とは自尊心なんだ。自尊心を刺激し、動かすことが、人の心をつかむコツだよ」と諭されたのです。

 目からうろこが落ちるというのは、ああいうことを言うんだと思います。その後、私も部下をマネジメントするに当たって相手の自尊心に訴えることをまず最初に考えるようになりました。

 じつは、営業日報を書く、読むというのも初めての経験でした。当時、都心部では1日50-60社、周辺部でも最低20社は回り、どこで、誰に会い、どんな商談をしたかを日報にまとめるわけです。部下からあがってくる日報に目を通す際、最初は“看板コール”も見抜けませんでした。

 奥田 看板コールというのは?

 楢葉 社名は看板でわかりますよね。その社名だけは本物で、後は適当にでっち上げるわけです。その地域で働いてきた支店長なら、日報に書かれた社名から、窓口の担当者は誰で、どこの機械を使っているかまで分かる。ですが、私の場合はなんにも知らないんですから、まずは看板コールかどうかを見抜くようなところからスタートしなければなりませんでした。でも、日報をじっくり読んでみますと、結構見えてくるもんです。

●「城北は人が育つ」と褒められた

 奥田 1973年に城北営業部長、75年には取締役に抜擢されて…。まさに駆け足で出世していかれたのですね。

 楢葉 当時、幹部社員は完全に不足していましたからね。電子リコピーを扱いだして、会社は急速に大きくなりつつあり、支店も急増していました。

 ものすごくうれしかったのは、「城北営業部は人が育っている」と大塚社長から褒められたことでした。

 セールスコンテストはいろいろ動いていましたが、最も重要視していたのは創立記念日に合わせた真夏のコンテストでした。このコンテストで、城北営業部は二番手、三番手に終わり、トップを取れない時代が続いていたんですが、1973年だったか74年だったか、トップを取ったんです。その時、大塚社長が「城北は人が育っている」と褒めてくれたんです。

●76年には電算機の営業部長に

 奥田 1976年に電算機の営業部長になられましたね。大塚さんの自伝「風雪を越えて」では、この間の事情を「楢葉君は反対派の急先鋒だった。ま、反対派の親玉だね。理論派だし、営業の腕もいい。彼に託してみようと思った」と記しています。実際はどうだったんですか。

 楢葉 私は反対派の急先鋒だったとは思っていないんですが、「コンピュータなんかやめてしまえ」とは言ってましたね。電卓から1970年にオフィスコンピュータに入っていったところが、まあ、万年赤字。事業は、結局は人で決まる。だけど、当時のコンピュータ事業部は決定的な人材不足でした。部門長は、優秀な人間をよそに出すと自部門の業績に直接影響してくるので、手放さない。だから、新興のコンピュータ部門には人材が揃わなかったわけです。

 私自身は、会社の将来にとって重要な部門なら、もっと人材を投入すべだとは思いつつ、何しろ万年赤字なんだから、どうしようもない。そんなことから、コンピュータなんかいらないと言ってました。

 奥田 辞令がでた時はどう思いました。

 楢葉 最初に打診された時は青天の霹靂でしたよ。周りからは、貧乏くじを引くな、断ってしまえと言われました。私は貧乏くじとは思わなかったんですが、よくぞ選んでくれたとも思えませんでしたね。

 奥田 この時ですよね、私が楢葉さんに初めて会ったのは。当時、私も大塚さんにはそれなりに認められていましたから、「楢葉君の部隊にオフコンとはこんな商品で、将来性はこんなにすごいんだということを教えてもらえないか」という依頼を受けたんです。それで、楢葉さん以下十数人の部員の前で講義をしたんでしたね。

 楢葉 そう、そう。私、人生って運が80%くらいの比重を占めると思っているんです。この時、奥田さんと知り合えて本当に良かった。まさに運ですね。もう一人、綜合システムプロダクトの大野健社長と知り合えたことも幸運だった。大野さんは日本事務器を経て独立した人ですが、お二人と知り合えて、本当によかった。オフコンのことなんか何も知らなかったのに、何とかこなすことができたのは、お二人のおかげです。

 奥田 振り返ってみますと、1976年は大塚商会にとって大変な年だったんですね。オフコンでは、内田洋行と分かれてNECと手を結ぶわけで…。

 楢葉 私がオフコンを担当するようになってすぐの頃でした。内田洋行さんがサービスを自社でやりたいと言ってきたことが決別する直接の原因でしたが、大塚商会にとって、とてものめる話ではありませんでした。最初は富士通さんに接触して、厳しい条件を付けられて困惑している時にNECさんから声がかかったんです。私、まだコンピュータのことがよく分かっているわけではありませんでしたが、本業が文具系の会社である内田洋行さんよりは、NECさんのほうが将来性はあるだろうとは思ってました。

 そうはいっても、当初はNECさんには良いマシンがなく、苦戦続きでした。

●巻き起こる社長批判と見事な収拾策

 奥田 「オフコン倍々作戦」のことは後で聞くとして、76年夏には大塚社長批判も社内で起きた。これは何が原因だったんですか。

 楢葉 1976年という年は第二次オイルショックで不況が急速に進んでいました。大塚商会にとっては創立15周年の記念すべき年だったんですが、ボーナスは少なく、15周年記念式典の時、挨拶している大塚社長が壇上でいきなり泣き出してしまい、みんなビックリしました。

 大塚さんはわれわれには何も言わなかったので知りませんでしたが、銀行は金を貸してくれず、資金繰りには本当に困っていたようです。

 そうしたなかで、8月の業績も非常に悪かった。予算達成率が80%未満の支店が14もあったりして。この14支店長に緊急招集をかけ、「成績を落とすにも限度というものがある」と面罵しつつ、平手で頬を張ったんです。元軍人ですから、激情のあまりつい手が出てしまったのでしょうが、いかに社長といえども、手を出したことは許せることではないと役員の意見が一致、建白書というか、詰問状というか、役員全員が署名捺印して、社長に会いに行きました。

 奥田 結果は、雨降って地固まることになるわけですね。

 楢葉 大塚さんも相当悩んだ末に、予算未達成の支店長の減俸という懲戒を白紙撤回、騒動は沈静化しました。この辺りが、大塚さんの偉いところですね。自分が反省すべきだと思った時は、きちんと反省し、次の手を打ってくる。

 この時の事態収拾策で見事だったのは、人事評価の公平性、公正性、透明性を高める努力をしたことです。誰もが分かり、納得できる基準を決め、マネージャーの恣意が入らないようにした。

●充足していたオフコン倍々3か年計画

 奥田 1978年には「オフコン倍々3か年計画」が打ち出されますね。大塚さんの自伝「風雪を越えて」では、「楢葉君も承知の上だからね」と書いてありますが、実際はどうだったんですか。

 楢葉 最初に相談を持ちかけられた時は狂気の沙汰だと思いましたよ。

 当時のオフコンは手作りに近く、稼働させるまでに順調にいって半年かかる。しかも一発OKなど滅多になく、手直しに数か月とられるなんてざらでした。

 77年の販売台数は60台、部員はセールス、SE、CE、プログラマー、インストラクターなどで総員43人でした。販売台数が増えれば、人員も急増させていかねばなりませんが、そんなことが可能だろうかとまず考えたのです。一方で、オフコン業界で生き残っていくためには、年間500台は売らなければダメだろうという大塚社長の判断も、それはその通りだと思いました。

 それで腹をくくって、挑戦することにしたんです。78年120台、79年240台、80年480台という具体的な目標を設定、走り出しました。最初は、部員もとまどい、反発もあったんですが、会社の将来を俺たちの力で変えてやろうという意識を共有するようになり、本当に目の色が変わってきました。営業は営業で、新規客をいかに開拓するかを寝ても覚めても考え、SEはSEで、同じ業種のユーザーならパッケージ化することで手離れをよくしようというテーマに取り組むなど、全部員がそれぞれにテーマを設定し、全力を上げて取り組みました。

 78年の12月25日に累計120台めの受注を獲得。その達成感、充足感を部員全員で共有でき、本当にうれしかったですね。

 運もよかったんです。まず、信州精器(現セイコーエプソン)さんから手離れのよい会計専用機が登場し、これを有力商材にすることができた。複写機で会計士事務所には以前から食い込んでいましたので、その顧客向けに会計専用機を勧めて相当数のユーザーを開拓できました。また、後半にはNECさんから名機「システム100」が登場して…。

 79年は不況の頃。大手メーカーがSEなどの採用を手控えていたため、優秀なSEを採用できたという点で、大塚商会にはこれも幸いしました。SEというのは個人差の大きい職種ですから、優秀な人材を採れるのは戦力的にとても重要です。

●衰退産業と興隆産業の勢いの差

 奥田 大塚さんはパソコンの販売にも率先して飛び込んでいって、その時、大里さん(大里堅氏、後に常務)を起用したでしょう。風の噂で、楢葉さんと大里さんは仲が悪いと聞いてましたので、あっ、張り合わせるつもりだなと思いました。

 楢葉 (笑いながら)そういう側面があったかもしれませんね。二人の確執が“ベルリンの壁”につながったきらいはありますが、今となっては懐かしい思い出です。

 ただ、オフコンという衰退する産業と、パソコンという興隆する産業の差、いかんともしがたい勢いの差というものは、身を持って体験させられました。大塚さんの、こうした時代を見抜く目の鋭さ、慧眼さには、たびたび脱帽させられましたね。

●女性の力を活用して老化現象を防げ

 奥田 ところで、この前の大塚商会の株主総会の席で、社員と株主全員を喜ばせ、勇気づけるような発言をしたそうですね。

 楢葉 ある株主から「大塚商会は学生の就職したい企業100社の中に入っていない、経営陣は何をしているんだ」という主旨の発言があり、会場の雰囲気が急速に冷えこんだので、私が常日頃考えていることを披露したんです。5年連続の増収・増益、しかも無借金になり、配当も増額してくれている。これは素晴らしいことで、経営者、社員の精進のたまものだと。

 奥田 二代目社長、大塚裕司さんの経営はどうごらんになっているんですか。

 楢葉 社長に就任して大きく成長したなと思います。大塚実名誉会長とは違ったよさが生きてきてますね。

 名誉会長は、稼ぐに追いつく貧乏なしと考えていたため、経費削減、コスト削減などはあまり言わず、粗削りというか、多少どんぶり勘定でも仕方ないというようなところがありました。

 裕司社長の場合、コンピュータをうまく活用して、業務プロセスを改善するなど、無駄を排除して、効率的、科学的な経営を心がけており、これがうまく機能していますね。5年連続の増収増益、実質的な無借金経営など、立派なものですよ。

 奥田 総会の席上では、女子社員をもっと活用せよともおっしゃったようですが…。

 楢葉 企業にとって一番怖いのは社員の平均年齢が上がることによる老化現象だと考えているんです。メーカーである富士通が平均年齢39歳だといわれますが、大塚商会の場合は35歳。これは販売会社としては危険水域だと思うんです。オービックは32-33歳、光通信は28歳くらいでしょう。年をとった社員をどう処遇活用するか、本気で考えねばならないところにきている。

 その対策の一つして、もっと女子社員を活用できないかと質問したんです。昔と違い、歩け、歩けのドブ板営業から脱し、ITを活用しながらサポート、サービスをもっともっと強化していかねばならない時代に入っているわけですから、女子社員活用の道はあるはずなんです。私が見てきたところでも、女子社員は総じてまじめだし、責任感も強い。一方で寿退社の率も高いわけですから、女子社員をうまく活用することが、老化現象対策としても有効だと思うんです。

 奥田 重なご意見ありがとうございます。最後に、大塚商会の現経営者、社員に対して言いたいことがありましたら、お願いします。

 楢葉 社会、経済というものは動いているものです。現在は成功している手法も永遠に通用するわけではない。このことは肝に銘じておいて欲しいと思います。

■プロフィール

楢葉勇雄(ならは いさお)

 1930(昭和5年)年、千葉県生まれ。■53年中央大学卒業、教文館に入社。■69年大塚商会入社、亀戸支店長に就任。以降、73年城北営業部長、75年取締役、77年常務取締役、87年専務取締役、95年副社長、96年最高顧問。■97年大塚商会退社、BCN顧問に。07年BCN退任。


※初出:「WebBCN」2007年9月10日

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